『物語の主人公はそれを演じる役者であるべきだが、映画制作の主人公は脚本そのものでなければならない。』
これは僕が卒業した大学の教授の言葉であり、僕の好きな教訓の一つである。人にはそれぞれの人生があり、皆が自分の人生の主人公である。が、その主観を映画制作に持ち込んではいけないという事で物事を決定する基準は脚本になければいけないという事である。当たり前のように聞こえるかもしれないがこれを意識して実践できている人は多くない。
こうした方が良いのではないか?という議論をする際、多く耳にするのが「前の撮影でやって良かったから」とか「好きだから・嫌いだから」と言ったような脚本の内容に関係のない理由を基に話す人が多く居る。一概に間違っているとは言い切れないが誰の目線で物語を話すのかと考えた場合やはりそういった発言はズレていると感じる。やはりあくまで脚本の目線に立って話し合わなければ物語の核心に観客を引き込む事は出来ないと思う。
しかしながらこの言葉は残念ながら理想論でもある。
実際には企画者、配給、プロデューサー、監督等の実績、名声によって主張の正当性は大きく変わるのが現実である。だが、理想論であるからこそ常に頭に留めておきたい事であると思う。
以前関わった作品でこんな事が起きた。
監督と撮影監督の関係が末期状態になりお互いが全く会話しない撮影があった。僕はカメラオペレーターとして参加していたが、そんな中撮影監督にこんな事を言われた。「カメラオペレーターにとって撮影監督は神のような存在だからお前は私にNOとかBUTを言うべきではない」っと。監督と話し合う事から逃げ、自分がやりたい事だけを押し付け撮影現場の混乱を引き起こしている張本人。彼が脚本がこう主張しているからこうしなさいと言っていればまだ彼の言葉に納得も出来たかもしれないが、カメラオペレーターが監督を無視して撮影監督に従う理由はなく、非常に不愉快な思いをした。
撮影監督が本当に脚本を基軸にしていればこんな事態にはなっていなかったと思う。プロデューサーが脚本を軸にチームを纏めていれば撮影監督がこのような態度を取ることもなかったと思う。
このように自分はこれだけのキャリアがあるというようなエゴを軸に物事を語るとそこには亀裂しか生じなくなる。
何よりも残念なのは結果それらが作品の出来栄えに大きく影響し、作品が本当に何を語りたかったのかすら観客に伝わらなくなる事。
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