ライトノベルな脚本

時折ライトノベルの様な脚本を見かける時がある。

このての脚本は読みやすく感覚的に何が起きているのかわかるのだが、同時に感覚的で曖昧過ぎて技術部が何を用意すれば良いのかわかり難い事もある。脚本は全てのクルーにとっての指標であり、脚本に載ってないことは実現し難い。

アドリブという手法で脚本上ない事をやる事もあるが、これは少し別の話になる。例えば新しいキャラクターが出るとその人物の年齢層、性別、性格がわかりそうな衣装とある程度の描写が必要になってくる。キャスティングやスタイリスト達はこれらの情報を元に仕事を開始する。同様にロケーションの描写、時間帯によって各技術部はシーンを想像するのだが曖昧で感覚的な描写だと読み手によってそれが大きく変わってしまう。つまり全員が同じ指標に向かうことが難しくなってしまう。お金と時間にゆとりのあるプロダクションであれば時間をかけて物事をまとめる事も出来るかもしれないが、生憎余裕があるプロダクションなど存在しない。

 

逆の意見であまりに脚本上でガチガチに物事を決め込みすぎていると撮影現場での自由度が無くなってしまうというのもあるが、個人的には少し賛成し難い。そもそも即興的なアイディアは準備をしていればいるほど良いものが生まれるものである。

曖昧なノリからは曖昧なアイディアしか生まれない。

 

日本の脚本のフォーマットは勉強した事ないのでわからないがアメリカの脚本はフォーマットもしっかりしているはずなのだが、昨今の配信サービスによる作品の大量生産の影響かアメリカ作品の脚本でこういったライトノベル脚本が増えてきている様に感じる。

古きに拘るのは良くないが新しくすることによって本来の意味が無くなってしまうのは残念である。